昭和41年10月5日 朝の御理解
例えば、同じ一つの御用をさせて頂きますでも、気分よく、にこやかにさせて頂く時の御用と、なんか知らん、心に不愉快な思いをもってする時の御用というか、その、その御用ぶり一つで、御用の、もちろん、その楽しさも、んー、ないのですが、できあがりも本当のできあがり、良いものができあがるはずはないですね。感情をいれて、何かに腹立ちまぎれに、または、心が沈んだ、そんな心で御用を頂いても、本当のよい御用ができるがずはありません。一つの話し合いにでもそうです。ね、にこやかに、お互いが和やかな心で、んーお互いがその理解し合いながらお話し合いを進めていきゃもうほんとうにスムーズにお話ができるですけれども、感情をいれて、ね、どっかこう足のとりあいのような感じで話し合いをいたしましたんでは、話し合いもこんがらがっていくばかりで、できあがるものもできあがらん。良い話し合いができるはずべき話し合いも、もうけんかになってできません。そのことだけを私共が分からせて頂いただけでもです、私共と神様の場合だって同じということが言えるです。
ね、私共が、汚い心でです、神様に向かったところで、それがよい結果になるはずありませんよね。神様が求め給う、もう限りない美しい心、ね、もう本当に真心を追求させてもらって、もう本当に真心を持って、神様に接していく時に、神様と私共の間にスムーズな交流が始まることは、もうその道理からいうても、合点がいくでしょうみなさん。ね、ですから、何というても私は、必要なのは、私共の心の中にある、もうその心の上に、限りない和らぎ喜ぶ心を頂くこと以外にないのです。ね、お互いに心を探りあいのような、汚い心で、ね、汚い根性で話し合いをしたって、いい答えがでてくるはずがありません。ね、そこに乗り上げ、ここに行き詰まり、必ずいたしましょう。自分が、なら一つの御用をさせて頂くでも、ね、本当に憂鬱な気持ちである、は、腹だたしい気持ちがある、ね。いわゆる、する時の仕事、また気分よう、ね、ニコニコと、できる時の御用ちいうたら御用の上がりが違いますでしょうが。
ね、例えば、原さんなら原さんがお洋服を仕立て上げられるでもです、なんか他に心配事があって、ね、本当にそのことを心配しながら例えば、あー洋服を仕立て上げられる、ね、そして、そこには私よい結果が生まれるはずはないて、いわば、短こうなったり、足しそこのうたり、( )があるじゃろうと思います。ね、いわゆるその、洋服にあげには、もうほかのことは忘れてしもて、そのことだけに一心にならなければ、いわゆる仕事はできないと思う。ね、なるほど、この忘れてというか、無学な、いわゆるこの方一心とこうおっしゃるその、一心を向ければおかげになるとおっしゃる、やはり一心を神様に向けなければおかげにならん。ね、和らいだ心でなからなければ、神様とのよい交流はあろうはずはないです。そのことから、こうして考えましてもですたい、私共がんなら、いかにすれば一心になれるか、ね、いかにそれが、私共の和らいだ心で神様におすがりができるか、いかにすれば和らいだ心で、日常生活を楽しんでいけるかということにまず焦点を置くことが、幸せの土台だということが分かります。おかげを頂くもとはそれだということが分かります。それを抜きにして、そげなところを土台にせずしてから、ただ、その、ね、よい話をまとめようとか、よい仕事をしようとか、( )のはそれは無理な話だということがわかります。どうぞ。
池尻てるか